ログイン夜中のベッドの中で、真尋はスマホの画面をぼんやりと眺めていた。颯太からのメッセージを、何度も読み返している。
『お前の隣人の一ノ瀬晃。月虹のバーテンダーと大学の同級生だ。関西学院大の同じゼミ出身。お前と一ノ瀬が出会ったの、仕込みじゃないのか?』
文字は追いかけているのに、頭がその意味を受けつけようとしない。
いや、きっとたまたまだ。同じゼミ出身だから、知り合いのバーに飲みにきただけだ。あの夜、たまたま真尋もいただけで、それ以上の意味はない。
だってあの日は、颯太に誘われるがまま月虹に行ったのだ。真尋がバーに行くなんて、事前にわかっていたはずがない。
……でも。
片桐が晃を真尋の隣に座らせたのは事実だ。あの自然な「こちらへどうぞ」。空いている席は他にもあったはずなのに、そこに座らせた。
だからってなにも決まったわけじゃない。知り合いの客がきたから、空いてる席に案内しただけかもしれない。
ぐるぐると同じ考えが行ったり来たりする。信じたい気持ちと、疑わざるを得ない事実が頭の中でぶつかり合い、真尋はどちらにも傾けずにいた。
髪をくしゃっと掴んで、真尋はため息をついた。
「……もう寝よう。考えすぎたら余計にわかんなくなる」
枕に顔を埋めたが、なかなか寝つけなかった。何度も寝返りを打っては、壁のほうに目をやる。今夜は壁の向こうから鼻歌が聞こえない。それがかえって気になり、余計に眠れなかった。
しばらくスマホをいじって時間をやり過ごしていると、またメッセージが届いた。
『明日、お前の家に行く。あいつに会わせろ』
颯太からだった。
「……かあちゃんかよ」
思わず笑ってしまった。やっぱり颯太は、心配でたまらないのだ。
『会えるかどうかわからないけど、とりあえずうちに来いよ』
そう返信すると、胸の奥にすこしだけ安心感が広がった。颯太だけは、ずっと味方でいてくれる。今はそれだけわかっていればいい。
翌朝の十時、颯太がやってきた。インターホンが鳴り、画面を見ると、がっしりした体を縮こまらせてカメラを覗き込む颯太が映っていた。
「やっぱりお前は有言実行だな」
「ったり前だろ。大事な友達のためだ」
「お前はもうちょっと俺を信用してくれてもいいんだけどな」
「信用してるから来てんだよ。お前の判断力じゃなくて、お前自身を」
返す言葉がなかった。
颯太は部屋に上がりながら、紙袋を真尋に手渡した。
「ほい、差し入れ。お前これ好きだろ?」
中身を確認すると、グアテマラ産のコーヒー豆が入っていた。真尋がハンドドリップで好んで使っている銘柄だ。
「うわ、サンキュ! ちょうど切れてて、買わなきゃと思ってたんだ」
「そうか。よかった」
颯太は真尋の頭をくしゃっと撫でた。昔からそうだ。真尋が落ち込んでいるときは、黙って頭を撫でてくる。その手つきが兄みたいで、真尋はくすぐったくなって顔をそらした。
「せっかくだから、これでコーヒー淹れるわ」
キッチンに向かいながら、思わず鼻歌が出た。数小節歌ってから、それが晃の鼻歌だと気づき、口を閉じた。
……いつのまに覚えたんだ。
颯太には気づかれていないようだった。ほっと息をつく。
「そういや、このマンション壁薄いから、あんまり大きい声でしゃべんなよ」
「え? そうなのか」
「隣の部屋に聞こえるんだよ」
「ああ、そうか。だったらお隣さんも呼べば?」
「……は?」
「だってお前、顔見知りなんだろ?」
颯太はわざとらしいほど大きな声で言った。壁越しに晃に聞こえるように。
「ま、まあ……」
颯太はわざわざ晃に会うためにきている。それを考えると、断る理由もなかった。
「……わかったよ」
部屋を出て、隣のインターホンを押す。指先がすこしだけ震えた。
「はーい」
扉が開くと、晃がメガネにTシャツ姿で立っていた。手には紙袋——また差し入れだ。
「あ、真尋さん。ちょうど今持っていこうと思ってたんですよ」
「あ……いつもありがとうございます」
「全然。好きでやってるんで。ところで、なにか用事でした?」
さっきの颯太との会話は聞こえていただろうか。壁は薄い。でも晃の表情からは読み取れなかった。
「実は友達がうちに来てて。よかったら一緒に話しませんか」
「うれしいなぁ。真尋さんが家に呼んでくれるなんて」
晃の顔がぱっと明るくなった。この笑顔が演技だとは、どうしても思えない。
「でも、いいんですか? お友達がいらしてるのに」
「うん、友達もいいって言ってるし」
「じゃあ、お昼一緒に食べません? ちょうどカレー作ったんで」
晃の部屋からスパイスの匂いが漂ってきた。クミンとコリアンダーの複雑な香り。
「お言葉に甘えて……」
晃は部屋に戻ると、鍋と差し入れの紙袋を抱えてきた。真尋が鍋を受け取ると、ずっしりと重くてあたたかかった。
「初めまして。一ノ瀬晃です」
「どうも。藤野颯太です」
晃はにこやかに手を差しだした。颯太もにこりと笑って握手を返す。表面上は和やかだが、颯太の目が笑っていないのを真尋は見逃さなかった。あの目は、仕事でプレゼンを見極めるときの目だ。
「と、とりあえず座って。コーヒー淹れるから」
「ありがとうございます。あ、真尋さんの部屋、きれいにしてますね」
「そんなことないですよ……」
晃はきょろきょろと部屋を見回している。本棚に目が止まったらしく、「いい本並んでますね」とほほえんだ。颯太はそんな晃の一挙一動を、表情を変えずに観察していた。
真尋はキッチンに逃げた。
グラインダーで豆を挽く。ザリザリという音に紛れて、リビングから颯太と晃の声が聞こえてくる。世間話をしているようだが、颯太の声にはかすかな警戒が滲んでいた。
ドリッパーにフィルターをセットし、挽いた豆を入れる。沸かした湯をポットから、細く「の」の字を描くように注ぐ。コーヒーの香りが立ち昇った瞬間、真尋は大きく息を吸った。この匂いだけは裏切らない。
三人分のカップをテーブルに運ぶと、晃はにこにこと颯太を見ているのに対し、颯太は腕を組んで晃を観察していた。真尋がカップを置くと、ふたりが同時にこちらを向いた。
「ありがとう、真尋」
「真尋さん、ありがとうございます」
声がぴったり重なって、真尋は思わず体をびくっとさせた。
「ところで一ノ瀬さん」
颯太がコーヒーをひと口飲んで、切りだした。
「この辺に引っ越されたきっかけって、なにかあるんですか?」
初手からジャブだ。真尋は内心ひやりとしたが、晃は怯む様子もなく答えた。
「都会の喧騒から離れたくて。この辺は静かでいいなと思ったんです」
「なるほど。前はどの辺に?」
「渋谷のほうです」
「渋谷。それはまた、ずいぶん便利なところから来ましたね」
「職場が渋谷なんで、近かったんですけどね」
「じゃあ今は通勤が遠くなったわけですか」
「まあ、そうですけど。静かな環境のほうが合ってるみたいで」
「なるほど。内見とかはいつされたんですか」
「平日に有給を取って来ました。ちょうど消化しなきゃいけなかったんで」
晃はよどみなく答えている。颯太のいじわるな質問にも、余裕のある笑みを崩さない。まるでプレゼンに慣れた人間の受け答えだ――と真尋は思った。広告代理店で働いていると言っていたから、人前で話すことには慣れているのだろう。
あまりにも空気が張り詰めてきたので、真尋はふたりにカレーを勧めた。
「お昼にしない? 晃さんのカレー、あったまったよ」
「あ、俺も手伝います」
晃がキッチンについてきた。鍋を火にかけてカレーを温めていると、スパイスの香りが部屋中に広がる。
「このスパイス、自分でブレンドしたんですよ」
晃が小声で言った。真尋との距離が近い。キッチンの狭さのせいだが、腕がかすめそうな距離にどきりとする。
「え、すごい……」
「真尋さんのコーヒーもすごいですよ。プロみたいだった」
そう言ってほほえむ晃の横顔を見ていると、この人が嘘をつくなんて信じられなくなる。キッチンに立つ晃の動きは手慣れていて、真尋の家の食器の場所も、聞くなりすぐに覚えてしまった。よそう量も、真尋には多め、颯太にはもっと多め。体格を見て調整しているらしい。そういう細やかさが、晃という人間だった。
カレーを食べながら、颯太の質問は続いた。
「一ノ瀬さんは本がお好きなんですってね」
「はい。それで真尋さんともバーで意気投合しまして」
晃が真尋のほうを見て、にっこりと笑った。あの夜の記憶がよぎって、真尋は頬が熱くなった。
この熱はスパイスカレーのせいだ。絶対にそうだ。
「で、書店にはよく行かれるんですか?」
その瞬間、晃のスプーンがわずかに止まった。
ほんの一瞬。誰にも気づかれないほど短い間。けれど真尋は、それを見逃さなかった。
「ええ。そうですね、週に二回ほど」
「週二回。月に八回ぐらいですか」
「だいたいそのくらいですかね」
「結構行かれるんですね」
「本が好きなので……」
晃はカレーに目を落とした。
週二回。月八回。同僚の山田さんが言うには、真尋がシフトに入っている日には必ず晃を見かけるという。真尋は月に二十日ほど出勤している。もし本当にシフトの日だけ来ているなら、月八回では足りない。
でも、真尋自身が書店で晃に会うのは月に一、二回だ。残りの日は、真尋に見つからないように来て帰っているということなのか。
それとも、山田さんの記憶違いか。
スプーンでカレーをかき混ぜながら、真尋はちらりと晃を見た。晃はなにごともなかったように、颯太とカレーの味の話をしている。「スパイスは専門店で買うんですよ」「へえ、凝ってますね」。颯太の声は穏やかだが、目はまだ観察を続けていた。
なにが本当なのかわからない。わからないけれど、さっきの「間」が、胸に刺さった小さな棘のように残った。
食事を終えると、晃が「そろそろ失礼します」と腰を上げた。
「もうすこしゆっくりしていけばいいのに」
「いえ、せっかくお友達がいらしてるんですから。おふたりでゆっくりしてください」
晃は鍋を抱えて、笑顔で帰っていった。「ごちそうさまでした」と真尋が言うと、「お粗末さまです」と返して、穏やかにドアを閉めた。
その穏やかさが、今はすこしだけ不気味に思えてしまう自分がいやだった。
晃が帰ったあと、颯太は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「飯はうまかった」
「だろ?」
「けどな。あいつ、なにか隠してる」
颯太の眉間にしわが深く刻まれている。
「料理はうまいし、感じもいい。けど、書店の質問のときに一瞬、間が空いた。あれは考えて答えを選んでいる間だ。俺は仕事でプレゼンを見てるから、嘘をつくときの『間』ってわかるんだよ」
「……そう、かな」
「あと、渋谷から引っ越してきた理由だ。『静かだから』って言ってたけど、渋谷に住んでた人間が目黒のこの辺を選ぶか? もっと静かな場所なんていくらでもある。それなのに、わざわざここを選んだ」
颯太は真尋をまっすぐ見た。
「お前の隣の部屋を、だ」
「……」
「俺の勘が外れたこと、ないだろ?」
真尋は黙った。確かに颯太の勘は鋭い。ただ、たまに外れることも真尋は知っている。でも今回ばかりは、外れてほしいと祈るような気持ちだった。
颯太を見送ったあと、部屋の片づけをしながら、晃の言葉を反芻していた。
「渋谷のほうです」
渋谷から目黒。路線も方角も違う。通勤時間は確実に長くなる。「静かな環境が好き」という理由だけで、わざわざ引っ越すだろうか。
それに、書店の頻度を聞かれたときの、あの間。あれはなんだったのか。
やっぱり晃はなにか隠しているのだろうか。
けれど、人は誰でも隠しごとのひとつやふたつある。真尋だって、晃とワンナイトしたことを颯太以外の誰にも話していない。
きっと気のせいだ。晃さんはただの本好きの隣人で、料理が得意で、笑顔がやわらかい人。それだけだ。
真尋はその違和感を、また見て見ぬふりをした。壁の向こうから、かすかに鍋を洗う水音が聞こえた。やがてそれが止んで、しばらくして、あの鼻歌がはじまった。
聞き慣れたメロディに、真尋の肩からすこしだけ力が抜けた。こんなにもこの鼻歌に安心してしまう自分が、すこしだけこわかった。
結局、晃は答えなかった。 渋谷からここに引っ越した理由。あの数秒間の沈黙が、どんな言い訳よりも重かった。 雨の廊下で向かい合ったあの瞬間。晃の切れ長の目が揺れていた。言葉を探しているようにも、どの嘘をつけばいいのかわからなくなっているようにも見えた。結局なにも言わないまま、「おやすみなさい」と言ってドアを閉めた。 普段はどんな質問にもよどみなく答える晃だ。颯太と一緒に食事をしたときでも、意地の悪い質問にすら余裕の笑みで返していた。広告代理店で「プレゼンの鬼」と呼ばれている男が、たかが引っ越しの理由程度で返事に詰まるだろうか。 言えない理由があるのだ。 引っ越しの理由なんて、いくらでも答えようがある。「静かな環境が好きだから」。前に颯太にはそう答えていた。同じ答えをくり返せばよかっただけなのに、真尋に聞かれたとき、晃はそれすらできなかった。 颯太には嘘をつけた。でも真尋には、つけなかった。それは、真尋にだけは嘘をつきたくないということなのか。それとも、嘘の上塗りがもう限界に達しているのか。 けれど、真尋がいくら考えたところで、晃の沈黙の理由はわからない。答えは晃だけが持っている。 壁の向こうから、かすかに鼻歌が聞こえてきた。以前のように朗らかなメロディではなく、どこか暗い。途中でふっと途切れて、しばらくすると再開する。まるで歌おうとしてはやめ、でもやめきれずに、また歌いはじめる。そんなふうに聞こえた。 晃はなにを考えているのだろう。 壁のこちら側で真尋が悩んでいるように、向こう側でも晃は悩んでいるのだろうか。「さびしい……な」 声に出してしまってから、慌てて口を押さえた。壁が薄いのだ。聞こえてしまうかもしれない。 聞こえてしまったら、晃はどう思うだろう。迷惑だろうか。重いと思うだろうか。そう考えると、またその言葉が頭をよぎる。 一旦は忘れようと決めたのに、結局、毎日のように晃のことを考えている。忘れようとすればするほど、壁越しの気配が意識に入り込んでくる。鼻歌の有無、足音のリズム、シャワーの音、ドアの開閉。すべて
颯太の言葉が、毒のようにじわじわと真尋の中に広がっていた。「あの夜の席の配置は、仕込みだと思う」 片桐が晃を真尋の隣に座らせた。「こちらへどうぞ」と、あの人懐っこい笑顔で。あれは偶然じゃなかった。 颯太の情報はきっと正しい。片桐から直接聞きだしたのだ。颯太はいつだって理論的で、細やかなリサーチに基づいて話す。感情論で真尋を脅そうとしているわけじゃない。 けれど。 片桐がいつも正しいことを言っているとも限らない。バーテンダーは客を楽しませるのが仕事だ。話を盛って、面白おかしく話すことだってあるだろう。「友達の好みの男がいるから隣に座らせた」。それだけ聞けば仕込みに聞こえるが、知り合いの客に空いている席を勧めただけかもしれない。 あの夜のことを思いだす。月虹のカウンター。真尋のほかに客はまばらだった。空いている席はいくつもあったのに、片桐はわざわざ真尋の隣を勧めた。「好きな席にどうぞ」でもよかったはずだ。 一度疑いだすと、すべてが怪しく見えてくる。本が好きだと言ったことも、栞堂のPOPを褒めてくれたことも、差し入れの味が真尋の好みだったことも。 全部、リサーチ済みだったとしたら。 疑いたくない。 本の話をするときの晃の顔は、本物だった。真尋がイシグロの話をしたら、晃はカーヴァーで返してきた。本をしっかり読み込んでいないと出てこない話題に、目を輝かせていた。付け焼き刃で読んだ人間に、あの深さは出せない。 それに。 あの夜、関西弁が漏れた声。「聞きたない」と叫んだ震えた声。真尋を抱いたときの、やさしいのに切ない手つき。あれが計算だとしたら、晃は相当な役者だ。広告代理店でプレゼンの鬼と呼ばれているとしても、あそこまで全身で嘘はつけないだろう。 じゃあ、なにが本当で、なにが嘘なのか。 出会いの仕掛けは嘘。でも、そのあとの感情は本物。そんな都合のいい話があるのだろうか。 響のことを思いだす。響も最初はやさしかった。真尋が好きな本を話しても笑顔で聞いてくれた。でもそのうち、退屈そうにして話題を変えるようになった。最初だけ相手に合わせて、慣
片桐からのメッセージ――「オペレーション・グッドネイバーの進捗どう?」が、頭の片隅に引っかかっていた。 けれど真尋は、あえて深く考えないことにした。友達同士の冗談だろう。ふざけた作戦名をつけて、からかい合っているだけだ。男同士なら、そういうこともある。 それに、晃とは寝たけれど、恋人になったわけじゃない。他人のスマホの通知を勝手に見たこと自体が後ろめたい。詮索する権利なんて、真尋にはない。 朝、晃が目を覚ました。 バツが悪そうに体を起こして、真尋と目を合わせないまま言った。「すみません……。昨日は、酔っ払ってて……」 その声は、昨夜の荒々しさが嘘のように小さかった。関西弁の痕跡もない。丁寧な標準語に戻った晃は、まるで別人のようだった。「うん……俺も、酔ってたから……」 真尋もうまく言葉が出なかった。シーツの乱れた自分のベッド。ワインの空きボトルが転がる部屋。昨夜あれだけ激しく求めてきた男が、今は目をそらしている。手首のあとと、首筋のかすかな痛みだけが、あの夜が現実だったことを証明していた。 晃は服を直して、「失礼します」と小さく頭を下げて、部屋を出ていった。 隣のドアが閉まる音。そのあと、いつもなら聞こえるはずの鼻歌が、聞こえなかった。 真尋と寝たことを後悔しているのだろうか。 でも昨夜、晃は真尋を激しく求めた。元カレの話を持ちだしただけで、関西弁が漏れるほど取り乱した。あれが演技だとは思えない。嫉妬していた。真尋を誰にも渡したくないと、体ごと訴えていた。 それなのに、朝になったら「酔ってた」で片づける。 真尋は、昨夜あの寝顔を見ながら自覚したことを思い出した。好きだ、と。この人のことが好きだと、はっきり思った。だから荒々しく求められても嫌じゃなかった。こわかったけれど振り払えなかったのは、晃の感情が本物だと信じたかったからだ。「晃さんは、なかったことにしたいのかな……」
響と会ってから三日間ずっと、不思議と晃に会わなかった。 あれほど毎日のように、どこかで遭遇していたのに。差し入れもドアノブにかかっていない。壁越しに鼻歌が聞こえるから隣にいることは確かだが、廊下で顔を合わせることがぱったりとなくなった。まるで真尋を避けているみたいだった。 いや。避けているのは、真尋のほうかもしれない。あの朝、腫れた目を見られたくなくて、エレベーターのドアを閉めた。あのとき晃がどんな顔をしていたか。扉の向こうで見た鋭い目を思いだすたびに、胸がざわつく。 真尋にとっては、会わないことがありがたかった。今、晃のやさしさに触れたらきっと涙が溢れてしまう。 結局、響からはあれ以来なんの連絡もなかった。「やり直さない?」と言った割に、ほったらかしだ。復縁を持ちかけておいて、三日間放置できる神経がわからない。 やっぱり響は真尋が恋しいわけじゃない。もし本当に恋しいなら、もっと必死に連絡してくるはずだ。真尋ならそうする。つなぎ止めたい人がいたら、メッセージを送って電話をかけて、追いかける。 そこまで考えて、あ、と我に返った。 これが「重い」って言われるんだよなあ。 自分でもわかっている。好きになったら一直線に相手に気持ちが向いてしまう。いつでも恋人を優先する。束縛しているつもりはなくても、同じ熱量を相手にも求めてしまうところがあった。 いつかは響に返事をしなければいけない。けれど今は、なにをどう返していいのかわからなかった。まだ響を忘れられないのか、それとも晃のことを好きになりかけているのか。自分の気持ちが、自分でいちばん見えない。 数日後の休日。真尋は行きつけのカフェで午前中を過ごした。窓際のソファ席に深く沈み、カーヴァーの短編を読んだ。やわらかい日差しがページを照らして、このところ荒んでいた気持ちが、すこしだけほどけていく。本を読んでいるあいだだけは、響のことも晃のことも考えなくていい。 ランチを食べて、夕方までゆったりと過ごした。 帰り道は目黒川沿いを歩いた。六月の緑が川面に映って、やわらかく揺れている。春にはソメイヨシノが一面に咲き
ソファの背もたれに頭を預けて、天井を見つめる。真っ暗な部屋のなかに、カーテンの隙間からやわらかい月明かりが差し込んでいた。壁の向こうの鼻歌は、いつのまにか止んでいた。 どれくらいそのままでいたのだろうか。伏せていたスマホが、再び震えた。 響からの二通目のメッセージ。『今、いつものカフェに来てる』 いつものカフェ。その言葉に、胸をえぐられた。真尋と響がデートのたびに通っていた、あの店だ。半年前まで、毎週のように向かい合って座っていた席。響はいつもカフェラテを頼んで、真尋はドリップコーヒーを頼んだ。 そこに今、響がいるという。まるでまだ付き合っているみたいに。 なんで今さら――。 真尋は画面をじっと見つめた。 会うべきか。いや、もう別れたのだ。響に会う必要はないはずだ。真尋の愛が重いと言って別れを切り出したのは響のほうだ。 だったらこのまま無視すればいい。 でも、せっかく連絡をくれて、あのカフェで待っている。真尋に話があるから呼んだのかもしれない。無視するのは真尋の性格に合わない。既読スルーだけはしたくなかった。昔からそうだ。どんなに傷ついても、相手からの連絡を無視することだけはできない。颯太に言わせれば、それが真尋の「お人好し」で「重い」ところなのだが。 返信しようと指を伸ばすが、指先が震えている。なんて返すのがいいのか、わからない。会いたくないわけじゃない。そう思ってしまうことが、いちばんつらかった。 しばらく画面を見つめたまま、時間だけが過ぎていく。 真尋は息を深く吸い込んで『いいよ』と、たった三文字を返信した。 カフェに着くと、まばらな客の中に響はいた。窓際の席に座ってスマホを見ている。真尋が入ってきたのに気づくと、目を細めてほほえみながら右手を上げた。 相変わらず、洗練された男だ。黒髪をセンターパートで流し、ブランドものをさりげなく着こなしている。まつげが長くて、涼しげな奥二重。営業スマイルと本音の笑顔の区別がつかない。アパレルのプレスとして華やかな業界にいる響は、半年前となにも変わってい
颯太の言葉が、頭から離れない。「渋谷から目黒のこの辺を、わざわざ選ぶか? お前の隣の部屋を、だ」 渋谷と目黒は隣り合う区だから、近いと言えば近い。けれど真尋が住んでいるのは目黒でも外れのほうで、世田谷区に近い。渋谷で働いているなら、通勤時間は確実に長くなるはずだ。 「静かな環境が好き」。晃はそう言った。でも、静かな場所なんて都内にいくらでもある。わざわざこのマンションの、この部屋を選ぶ理由にはならない。 それに、「渋谷のほう」という言い方も気になった。渋谷に住んでいたら、ふつうは「渋谷です」とだけ答えるだろう。「ほう」をつけるのは、正確には渋谷ではない場所に住んでいたからではないか。たとえば渋谷区に隣接した区なら、「渋谷のほう」というかもしれない。 考えれば考えるほど、なにが本当でなにが嘘なのかわからなくなる。 それでも、晃がほほえんでくれるときの目は、作り物じゃない。それだけはわかる。あのやわらかい目が嘘をついているとは、どうしても思えないのだ。「はあ……もう、どうしたらいいんだよ」 真尋はベッドの上で大きくため息をついた。 晃のことを信じたい。あの人の好意は嘘じゃないはずだ。でも颯太にはいつも「お前は相手を信じすぎる」と釘を刺される。響のときもそうだった。周囲の忠告を聞かずに信じ続けて、結局「お前は重い」のひと言で終わった。 颯太の言葉と自分の気持ちのあいだで、ふらふらと揺れている。そんな自分が嫌だった。 けれど悩んでいても、日々の生活は止まらない。 相変わらず晃は差し入れを持ってきてくれる。スーパーやゴミ捨て場で顔を合わせることもある。栞堂にもときどき来て、POP付きの本を買ってくれた。先日は海外文学の棚で、真尋のPOPをじっと読んでいる晃の背中を、レジの向こうから見つけた。あの真剣な横顔を見ているうちに、胸がいっぱいになった。 顔を合わせるたびに、モヤモヤはすこしずつ薄くなっていった。あの笑顔を見ると、疑いの輪郭がにじんでいく。やっぱり颯太は心配しすぎなのだ。こんな誠実な人が、なにかを企んで