เข้าสู่ระบบ夜中のベッドの中で、真尋はスマホの画面をぼんやりと眺めていた。颯太からのメッセージを、何度も読み返している。
『お前の隣人の一ノ瀬晃。月虹のバーテンダーと大学の同級生だ。関西学院大の同じゼミ出身。お前と一ノ瀬が出会ったの、仕込みじゃないのか?』
文字は追いかけているのに、頭がその意味を受けつけようとしない。
いや、きっとたまたまだ。同じゼミ出身だから、知り合いのバーに飲みにきただけだ。あの夜、たまたま真尋もいただけで、それ以上の意味はない。
だってあの日は、颯太に誘われるがまま月虹に行ったのだ。真尋がバーに行くなんて、事前にわかっていたはずがない。
……でも。
片桐が晃を真尋の隣に座らせたのは事実だ。あの自然な「こちらへどうぞ」。空いている席は他にもあったはずなのに、そこに座らせた。
だからってなにも決まったわけじゃない。知り合いの客がきたから、空いてる席に案内しただけかもしれない。
ぐるぐると同じ考えが行ったり来たりする。信じたい気持ちと、疑わざるを得ない事実が頭の中でぶつかり合い、真尋はどちらにも傾けずにいた。
髪をくしゃっと掴んで、真尋はため息をついた。
「……もう寝よう。考えすぎたら余計にわかんなくなる」
枕に顔を埋めたが、なかなか寝つけなかった。何度も寝返りを打っては、壁のほうに目をやる。今夜は壁の向こうから鼻歌が聞こえない。それがかえって気になり、余計に眠れなかった。
しばらくスマホをいじって時間をやり過ごしていると、またメッセージが届いた。
『明日、お前の家に行く。あいつに会わせろ』
颯太からだった。
「……かあちゃんかよ」
思わず笑ってしまった。やっぱり颯太は、心配でたまらないのだ。
『会えるかどうかわからないけど、とりあえずうちに来いよ』
そう返信すると、胸の奥にすこしだけ安心感が広がった。颯太だけは、ずっと味方でいてくれる。今はそれだけわかっていればいい。
翌朝の十時、颯太がやってきた。インターホンが鳴り、画面を見ると、がっしりした体を縮こまらせてカメラを覗き込む颯太が映っていた。
「やっぱりお前は有言実行だな」
「ったり前だろ。大事な友達のためだ」
「お前はもうちょっと俺を信用してくれてもいいんだけどな」
「信用してるから来てんだよ。お前の判断力じゃなくて、お前自身を」
返す言葉がなかった。
颯太は部屋に上がりながら、紙袋を真尋に手渡した。
「ほい、差し入れ。お前これ好きだろ?」
中身を確認すると、グアテマラ産のコーヒー豆が入っていた。真尋がハンドドリップで好んで使っている銘柄だ。
「うわ、サンキュ! ちょうど切れてて、買わなきゃと思ってたんだ」
「そうか。よかった」
颯太は真尋の頭をくしゃっと撫でた。昔からそうだ。真尋が落ち込んでいるときは、黙って頭を撫でてくる。その手つきが兄みたいで、真尋はくすぐったくなって顔をそらした。
「せっかくだから、これでコーヒー淹れるわ」
キッチンに向かいながら、思わず鼻歌が出た。数小節歌ってから、それが晃の鼻歌だと気づき、口を閉じた。
……いつのまに覚えたんだ。
颯太には気づかれていないようだった。ほっと息をつく。
「そういや、このマンション壁薄いから、あんまり大きい声でしゃべんなよ」
「え? そうなのか」
「隣の部屋に聞こえるんだよ」
「ああ、そうか。だったらお隣さんも呼べば?」
「……は?」
「だってお前、顔見知りなんだろ?」
颯太はわざとらしいほど大きな声で言った。壁越しに晃に聞こえるように。
「ま、まあ……」
颯太はわざわざ晃に会うためにきている。それを考えると、断る理由もなかった。
「……わかったよ」
部屋を出て、隣のインターホンを押す。指先がすこしだけ震えた。
「はーい」
扉が開くと、晃がメガネにTシャツ姿で立っていた。手には紙袋——また差し入れだ。
「あ、真尋さん。ちょうど今持っていこうと思ってたんですよ」
「あ……いつもありがとうございます」
「全然。好きでやってるんで。ところで、なにか用事でした?」
さっきの颯太との会話は聞こえていただろうか。壁は薄い。でも晃の表情からは読み取れなかった。
「実は友達がうちに来てて。よかったら一緒に話しませんか」
「うれしいなぁ。真尋さんが家に呼んでくれるなんて」
晃の顔がぱっと明るくなった。この笑顔が演技だとは、どうしても思えない。
「でも、いいんですか? お友達がいらしてるのに」
「うん、友達もいいって言ってるし」
「じゃあ、お昼一緒に食べません? ちょうどカレー作ったんで」
晃の部屋からスパイスの匂いが漂ってきた。クミンとコリアンダーの複雑な香り。
「お言葉に甘えて……」
晃は部屋に戻ると、鍋と差し入れの紙袋を抱えてきた。真尋が鍋を受け取ると、ずっしりと重くてあたたかかった。
「初めまして。一ノ瀬晃です」
「どうも。藤野颯太です」
晃はにこやかに手を差しだした。颯太もにこりと笑って握手を返す。表面上は和やかだが、颯太の目が笑っていないのを真尋は見逃さなかった。あの目は、仕事でプレゼンを見極めるときの目だ。
「と、とりあえず座って。コーヒー淹れるから」
「ありがとうございます。あ、真尋さんの部屋、きれいにしてますね」
「そんなことないですよ……」
晃はきょろきょろと部屋を見回している。本棚に目が止まったらしく、「いい本並んでますね」とほほえんだ。颯太はそんな晃の一挙一動を、表情を変えずに観察していた。
真尋はキッチンに逃げた。
グラインダーで豆を挽く。ザリザリという音に紛れて、リビングから颯太と晃の声が聞こえてくる。世間話をしているようだが、颯太の声にはかすかな警戒が滲んでいた。
ドリッパーにフィルターをセットし、挽いた豆を入れる。沸かした湯をポットから、細く「の」の字を描くように注ぐ。コーヒーの香りが立ち昇った瞬間、真尋は大きく息を吸った。この匂いだけは裏切らない。
三人分のカップをテーブルに運ぶと、晃はにこにこと颯太を見ているのに対し、颯太は腕を組んで晃を観察していた。真尋がカップを置くと、ふたりが同時にこちらを向いた。
「ありがとう、真尋」
「真尋さん、ありがとうございます」
声がぴったり重なって、真尋は思わず体をびくっとさせた。
「ところで一ノ瀬さん」
颯太がコーヒーをひと口飲んで、切りだした。
「この辺に引っ越されたきっかけって、なにかあるんですか?」
初手からジャブだ。真尋は内心ひやりとしたが、晃は怯む様子もなく答えた。
「都会の喧騒から離れたくて。この辺は静かでいいなと思ったんです」
「なるほど。前はどの辺に?」
「渋谷のほうです」
「渋谷。それはまた、ずいぶん便利なところから来ましたね」
「職場が渋谷なんで、近かったんですけどね」
「じゃあ今は通勤が遠くなったわけですか」
「まあ、そうですけど。静かな環境のほうが合ってるみたいで」
「なるほど。内見とかはいつされたんですか」
「平日に有給を取って来ました。ちょうど消化しなきゃいけなかったんで」
晃はよどみなく答えている。颯太のいじわるな質問にも、余裕のある笑みを崩さない。まるでプレゼンに慣れた人間の受け答えだ――と真尋は思った。広告代理店で働いていると言っていたから、人前で話すことには慣れているのだろう。
あまりにも空気が張り詰めてきたので、真尋はふたりにカレーを勧めた。
「お昼にしない? 晃さんのカレー、あったまったよ」
「あ、俺も手伝います」
晃がキッチンについてきた。鍋を火にかけてカレーを温めていると、スパイスの香りが部屋中に広がる。
「このスパイス、自分でブレンドしたんですよ」
晃が小声で言った。真尋との距離が近い。キッチンの狭さのせいだが、腕がかすめそうな距離にどきりとする。
「え、すごい……」
「真尋さんのコーヒーもすごいですよ。プロみたいだった」
そう言ってほほえむ晃の横顔を見ていると、この人が嘘をつくなんて信じられなくなる。キッチンに立つ晃の動きは手慣れていて、真尋の家の食器の場所も、聞くなりすぐに覚えてしまった。よそう量も、真尋には多め、颯太にはもっと多め。体格を見て調整しているらしい。そういう細やかさが、晃という人間だった。
カレーを食べながら、颯太の質問は続いた。
「一ノ瀬さんは本がお好きなんですってね」
「はい。それで真尋さんともバーで意気投合しまして」
晃が真尋のほうを見て、にっこりと笑った。あの夜の記憶がよぎって、真尋は頬が熱くなった。
この熱はスパイスカレーのせいだ。絶対にそうだ。
「で、書店にはよく行かれるんですか?」
その瞬間、晃のスプーンがわずかに止まった。
ほんの一瞬。誰にも気づかれないほど短い間。けれど真尋は、それを見逃さなかった。
「ええ。そうですね、週に二回ほど」
「週二回。月に八回ぐらいですか」
「だいたいそのくらいですかね」
「結構行かれるんですね」
「本が好きなので……」
晃はカレーに目を落とした。
週二回。月八回。同僚の山田さんが言うには、真尋がシフトに入っている日には必ず晃を見かけるという。真尋は月に二十日ほど出勤している。もし本当にシフトの日だけ来ているなら、月八回では足りない。
でも、真尋自身が書店で晃に会うのは月に一、二回だ。残りの日は、真尋に見つからないように来て帰っているということなのか。
それとも、山田さんの記憶違いか。
スプーンでカレーをかき混ぜながら、真尋はちらりと晃を見た。晃はなにごともなかったように、颯太とカレーの味の話をしている。「スパイスは専門店で買うんですよ」「へえ、凝ってますね」。颯太の声は穏やかだが、目はまだ観察を続けていた。
なにが本当なのかわからない。わからないけれど、さっきの「間」が、胸に刺さった小さな棘のように残った。
食事を終えると、晃が「そろそろ失礼します」と腰を上げた。
「もうすこしゆっくりしていけばいいのに」
「いえ、せっかくお友達がいらしてるんですから。おふたりでゆっくりしてください」
晃は鍋を抱えて、笑顔で帰っていった。「ごちそうさまでした」と真尋が言うと、「お粗末さまです」と返して、穏やかにドアを閉めた。
その穏やかさが、今はすこしだけ不気味に思えてしまう自分がいやだった。
晃が帰ったあと、颯太は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「飯はうまかった」
「だろ?」
「けどな。あいつ、なにか隠してる」
颯太の眉間にしわが深く刻まれている。
「料理はうまいし、感じもいい。けど、書店の質問のときに一瞬、間が空いた。あれは考えて答えを選んでいる間だ。俺は仕事でプレゼンを見てるから、嘘をつくときの『間』ってわかるんだよ」
「……そう、かな」
「あと、渋谷から引っ越してきた理由だ。『静かだから』って言ってたけど、渋谷に住んでた人間が目黒のこの辺を選ぶか? もっと静かな場所なんていくらでもある。それなのに、わざわざここを選んだ」
颯太は真尋をまっすぐ見た。
「お前の隣の部屋を、だ」
「……」
「俺の勘が外れたこと、ないだろ?」
真尋は黙った。確かに颯太の勘は鋭い。ただ、たまに外れることも真尋は知っている。でも今回ばかりは、外れてほしいと祈るような気持ちだった。
颯太を見送ったあと、部屋の片づけをしながら、晃の言葉を反芻していた。
「渋谷のほうです」
渋谷から目黒。路線も方角も違う。通勤時間は確実に長くなる。「静かな環境が好き」という理由だけで、わざわざ引っ越すだろうか。
それに、書店の頻度を聞かれたときの、あの間。あれはなんだったのか。
やっぱり晃はなにか隠しているのだろうか。
けれど、人は誰でも隠しごとのひとつやふたつある。真尋だって、晃とワンナイトしたことを颯太以外の誰にも話していない。
きっと気のせいだ。晃さんはただの本好きの隣人で、料理が得意で、笑顔がやわらかい人。それだけだ。
真尋はその違和感を、また見て見ぬふりをした。壁の向こうから、かすかに鍋を洗う水音が聞こえた。やがてそれが止んで、しばらくして、あの鼻歌がはじまった。
聞き慣れたメロディに、真尋の肩からすこしだけ力が抜けた。こんなにもこの鼻歌に安心してしまう自分が、すこしだけこわかった。
真尋の仕事終わりが晃の退勤時間と重なる日は、必ず晃が栞堂に迎えにきてくれる。一緒に帰るのが当たり前になっていた。 隣人だったときも同じ場所に帰っていたのだが、今は同じ部屋に帰る。玄関に入ると、「ただいま」「おかえり」をお互いに言い合って、キスをする。その瞬間がうれしくてたまらない。 今日はまさに、晃が迎えにくる日だった。 腕時計を確認すると、退勤時間まであと十分。もうすぐ晃に会えると思うと、真尋は商品補充にも熱がこもった。毎日部屋で顔を合わせているのに、おかしな話だ。 ワゴンに乗せてある本を次々に棚に入れていく。時間いっぱいまで、できるだけ本を補充しようと真剣に取り組んでいると、ととと、と足音が聞こえた。この足音の主は、POPイケメン追跡班の班長、山田さんだ。追跡する必要はなくなったはずなのに、どうしたのだろうか。「柊さん、柊さん」 振り向くと、やはり山田さんがそこに立っていた。「どうしたの?」「POPイケメンさん、もとい、柊さん彼氏さんが来ていますよ」「ああ、今日くるって約束してたから。外で待ってるんでしょ?」「いえ。店内にいらっしゃいます」「え?」 付き合いはじめてから、店にくるときには事前に連絡をくれていた。今日のように帰る時間が同じときは、いつも外で待ってくれている。なのに、急にどうしたんだろうか。「なんだか、不審な動きをしてるんですよね」 山田さんはわざと声をひそめてみせた。眉間に皺を寄せて、追跡班としての職務に戻ったような顔だ。「不審な動き?」「とりあえず、ご自分の目で。班長としてお伝えするのは、ここまでです」 山田さんはそれだけ言うと、踵を返して別の棚へ消えていった。班長の仕事はここまで、ということらしい。 別に、不思議なことではないはずだ。本好きの晃のことだ。真尋を待っているあいだに、おもしろそうな本を物色しているのかもしれないから。 真尋は手早く補充を完了して、ワゴンをバックヤードに置きに行った。そしてそのまま店内の在庫を確認するふりをして、
新居に引っ越して一週間が経った。朝、目を覚ますと隣に晃がいる。そのたびに、これは夢なのではないかと思うし、毎朝幸せな気持ちになる。まだこの状況に慣れない自分に呆れさえするが、それと同時に毎日が新鮮で愛おしい。 壁の向こうから聞こえる気配ではなく、肌で感じる体温。それが当たり前になるのに、もうすこし時間がかかりそうだ。 真尋は横ですうすうと寝息を立てている晃を起こさないように、そっとベッドを抜け出そうとした。ふいに手首を掴まれて、晃の胸のなかに引きずり込まれる。「おはよう、真尋」 晃の胸に抱きしめられて、朝から心臓に悪い。けれど、これも新しい日常なのだ。「おはよう、晃」 名前を呼び捨てるのにも、ようやく慣れてきた。最初の数日は、口を開くたびに「真尋さん」「晃さん」と「さん」がつきそうになって、お互いに笑い合ったものだった。今はもう、すんなり呼べる。それだけで、世界がすこし新しくなる。 晃の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。そうすれば、晃は同じか、それ以上の力を込めて抱きしめ返してくれる。いつも同じ気持ちでいられるのが、心地いい。「なんでひとり先に起きようとしてたん」 すこし拗ねた声が、頭の上から降ってきた。先に起きようとしただけだ。たったそれだけのことでも、一分一秒でもくっついていたい気持ちがある晃には、許せないのだろう。 真尋はくすくすと笑った。「だって、気持ちよさそうに寝てたよ?」「起こしてくれたらええやんかぁ」 甘えた声。一緒に暮らすようになって、晃は甘えるのが好きなのだと知った。それは真尋も同じで、甘やかしてほしいときには晃に甘やかしてもらい、晃が甘えたいときには、たっぷり甘やかす。持ちつ持たれつの関係だ。「睡眠は大事。ちゃんと寝れるときは、しっかり寝ないと」「ほな、もうちょい一緒に寝よ?」「だめ。今日は俺、出勤時間早いから」「ええー。しゃあないなぁ」 晃は真尋にチュッと音の出るキスをすると、むくっと起きた。明らかに眠たそうな顔をしている。寝起きの晃の髪は、相変わら
真尋はベッドにごろんと横になった。天井をぼんやりと見つめる。この部屋に思い入れは特にない。ただ、職場から近くて、安い物件だっただけだ。けれど実際に明日、この部屋を離れると思うと、なんとなくさみしく感じた。 新居では、晃とふたりで寝るためのダブルベッドを購入した。このシングルベッドも明日には処分する。この狭いベッドで、何度も晃と愛し合った。嫉妬に駆られて、無理やりに近い形で抱かれたこともある。恋人になってからは、大切に、やさしく、宝物のように扱ってくれた。 シングルベッドは狭すぎて、大人の男がふたりで寝るには窮屈だった。けれど、くっついて眠ることができた。いつも晃の大きな胸のなかに抱かれて眠るのが、好きだった。ベッドが大きくなっても、またくっついて寝たいな。そんなことを考えていたら、急に腹の奥が疼いてきた。「やばっ。明日朝早いから、早く寝たいのに」 スウェットの上から股間に手をやると、ゆるく兆しはじめている。晃の息遣いや手の動きを想像してしまったからだろうか。このまま寝ても、きっと中心がさらに熱を持って、目が冴えるに決まっている。 仕方ない。抜くか。 下着のなかに手を入れようとしたとき、スマホが震えた。画面を確認すると、晃からの着信だった。真尋はそれを見てビクッとした。 ――晃さんのことを想像して抜こうとしてたの、バレた? ドキドキしながら電話に出た。「晃さん?」「今、大丈夫?」「う、うん……」「ごめん。明日早いから、もう寝るとこやったやろ?」「ま、まあ、そうなんだけどさ……」 歯切れの悪い返事しかできない。晃に変に思われているのではないかと、背中に冷たいものが降りてきた。 いや、別にやましいことはしていない。青年男子なら、誰にでも起こる生理現象だ。「あのさ……」「うん?」「今から、そっち行ってもええ?」 晃が遠慮がちに聞いてきた。明日の朝は八時から荷出しがはじまる。だから本当は
晃に「大切な話がある」と言われて、真尋はごくりと唾を飲み込んだ。緊張が走り、手先が急に冷たくなる。なにか自分がしただろうかと思い返すが、なにも思い浮かばない。どくどくと耳の奥で、血流の流れる音がやけに大きく響いた。「あのさ――」 真尋は息を呑んだ。次にどんな言葉がくるのかと、そのまま息を詰める。キュッと拳を握ると、自然に関節が白く浮かんだ。 晃の表情は、これまで見たどの晃とも違っていた。仕事モードでもない。ふだんのポンコツでもない。なにかをこの上ない真剣さで言おうとしている、覚悟の顔だ。「俺たち、一緒に暮らさへん?」 思いもよらない提案に、耳を疑った。「え?」「あ、急にごめんな。実は、付き合いはじめてからずっと思っててん。隣同士でもええねんけど……その、俺はずっと真尋さんと一緒にいたいねん」 晃は恥ずかしそうに首の後ろをかいた。「……えっと」 真尋はまだ晃の言葉を飲み込むことができずにいた。一緒に暮らす。隣人ではなくなる、ということだ。「いや、その、今すぐってわけやないねん。っていうか、一緒に暮らせたらええな、って思っただけやし」 晃は慌てて両手を振った。 一緒に暮らす。言葉を小さく口のなかで転がすと、その意味がじんわりと胸に染みこんでくる。 仕事に行く前も、家に帰ってからも、晃が家にいる。お互いの家を行き来する必要がなくなるのだ。いや、隣同士なのだから、行き来はそんなに手間ではない。けれど、すぐに会いたいとき、一分一秒も待てないとき、待たなくてもいい。いつも晃がそばにいる。「好き」と言いたいときに隣にいて、抱きつきたいときには抱きつける。そして触れ合いたいときにも、手の届くところにいる。 こんなにも真尋は独占欲が強かっただろうか。自分らしくいられる晃の隣は、居心地がいい。自分の重い気持ちも受け取ってもらえるのが、心地いい。 響と付き合っていた三年間、真尋は同棲の話を一度もしなかった。したいと思ったこともなかった気がする。一緒に暮らしたら、自分の重さが
オーナーからのゴーサインが出た。真尋は早速、颯太に手伝ってもらいながら店のSNSを作成し、イベントを告知した。晃のアイデアは、真尋が書いたPOPをSNSに投稿することだった。真尋はそんなことでいいのかと半信半疑だったが、予想を上回る反響に驚いた。『なに? このイベント! 神!』『参加したい!』『気になる!』 次々とコメントがついて、たくさんの人が真尋のPOPを見てくれているのだと思うと、真尋は胸が熱くなった。書店員になってからずっと、夜中に下書きをしては書き直してきたあの一枚一枚の紙が、こうしてはじめて遠くの誰かの目に届いている。それが、不思議で、うれしくて、すこしだけ照れくさかった。 真尋は片桐にも同じ原稿を渡し、月虹のSNSでも告知してもらった。月虹には相当数のフォロワーがいるので、すぐに反応があった。バーの常連客が投稿を拡散してくれて、瞬く間にイベントの告知は広がっていった。 月虹のSNSでは、イベントの告知に加えて、座談会の登壇者も募集した。すると、おもしろそうだから出てみたい、とセクシュアリティをオープンにしているお客さんから連絡が入った。 ありがたい。事前にこれほど反響があるとは思っていなかった。できるだけ多くの人に座談会で話してもらいたいが、人数が多すぎると話がまとまらず、せっかくの企画が台無しになる可能性もある。 月虹の定休日に、真尋、晃、片桐、颯太の四人で会議を行った。会議といっても、ただみんなで集まって飲んでいるだけなのだが。「片桐さん、お客さんでこの人なら大丈夫っていう人、このなかにいる?」 真尋は、月虹のSNSのコメントや個別メッセージで立候補してくれた人たちのアカウント名を見ながら、片桐に聞いた。真尋には誰が誰だかさっぱりわからないし、実際に接客している片桐のほうが、その人となりをよく知っているはずだと思ったからだ。「んー、せやな。けっこうみんなどぎついこと話してくれるとは思うねんけど。真尋さんはこの座談会、どんな感じにしたいん?」「BL小説や漫画が好きな女性がターゲットだから、できるだけ内輪受けにならない方向で行きたいんです」
「オペレーション・グッドネイバー」という言葉が片桐の口から出ると、晃の様子が一気におかしくなった。晃は必死に阻止しようとしていたが、片桐は風に揺れるのれんのように、のらりくらりとかわしている。「もう、ええんやって。真尋さんと付き合うことできてんから!」「せやから話すんやんか。暴露したほうが楽しいやろ?」「裏話は話さへんからええんやんか」「いや、それはちゃう。知ってもらうことで、その内容の奥深さを理解してもらえるんや」 よくわからないが、片桐と晃がやいやい言い合っているのを見ると、そのオペレーションに相当気合を入れていたのだろうと思えてきた。 月虹のカウンターの奥で、間接照明がアンバー色の光を揺らしている。今日は店の定休日だ。普段ならカクテルの注文が飛び交うこの空間に、今は四人しかいない。テーブルに置かれたタパスの皿はおおかた空になり、グラスのなかの氷だけが、ちりっと小さな音を立てる。 颯太はひとり、静かに酒を飲んでいる。いつもなら真尋に害が及ばないよう、周りに目を光らせているはずだ。だが、今夜は様子がおかしい。それに、いつもなら「オペレーション・グッドネイバーってなんだ!」と食ってかかるはずなのに、今夜はおとなしくグラスを傾けている。それも気になる。「颯太、なんかあったのか?」「なんでだ」「いや、なんかいつもと違うっていうか。だいたい晃さんのこと、あれだけ警戒してたのに、今はそれもなくなったから」 颯太はカクテルグラスの縁を指でなぞった。「うん、まあ、いけすかんやつだが、真尋が好きになった相手だしな。それにまあ、いろいろ話を聞けば、悪いやつじゃなさそうだし……」 なんとなくいつもより歯切れの悪い返事を不審に思ったが、真尋は「そっか」とだけ返した。「ことの発端は、二年ほど前のことです」 片桐がまるで講談師のように語りはじめた。張り扇がないので、代わりにパン、と手でテーブルを叩く。「ある日のことでございます。一ノ瀬晃は、街の本屋さんに、ふらりと立ち寄ったのでございます。書店の名は――
晃が作った企画書はプロ顔負けだった。いや、まさしくプロの手による出来栄えだった。やはりプレゼンの鬼はすごい。「これ、まずは店長に提案しないといけないと思うんだよね」「わかった。俺も一緒に行くわ」「え? いいの?」 晃は大きくうなずいた。「だって、俺の真尋さんの職場のことやで。俺がちゃんと責任持ってやるわ」「いやいやいやいや。個人的な感情はいらないんだよ」「ちゃうよ。だって栞堂がなくなったら、真尋さんのPOPが見られへんやん。あれ見て本を買う人、いっぱいいんねんで。知らんやろ?
店長から「店が閉店の危機に陥っている」と聞いて以来、従業員の活気は明らかに落ちた。栞堂の従業員は誰もが楽しそうに仕事をしていた。それなのに今は、みんながみんな負のオーラを纏っていて、空気がどんよりとして重かった。 真尋もきっとその中のひとりだ。自分でもわかっている。きちんと笑顔をお客さんに向けられていない。山田さんに向けたら、また般若だのハニワだの言われるに決まっている。 当の山田さんは、落ち込む様子もなく、テキパキと仕事をこなしていた。きっと山田さんの心のなかにも、真尋やほかの従業員と同じように、どんよりとした分厚い雲が垂れ込めているに違いない。けれど
なにかとてつもなく大きなものを耳元でいきなり落とされたみたいに感じて、音が遠のいた。店長がなにか言っているが、言葉がうまく形にならない。まるで自分のまわりに透明なガラスの囲いがあって、この世から切り離されたような感覚だった。「みんなも知ってると思うけど、このところ売り上げがよくない」 店長が説明している。けれど真尋の耳には、ほとんど届いてこない。「オーナーが売り上げの低い店をいくつか閉店することに決めたそうだ。それで、うちの店もその候補に挙がった。まだ決定じゃない。猶予は、三か月だ。三か月で数字を動かせなきゃ、閉店になる」
これまで隣人だった晃と、デートをしたことはない。偶然、真尋が行きつけのカフェやスーパーで会うか、晃が客として栞堂に訪れるだけだった。ふたりで出かけたことはなかった。 自分からデートをしようと誘ってしまった。しかも、昨日付き合いはじめたばかりだ。けれど、なぜか緊張はしない。響とのときとはまったく違う。あのときは真尋が響を好きすぎて、背伸びをしすぎていたのかもしれない。晃とは、お互いに気持ちが重いぶん、ぶつけ合っても大丈夫だろう。だからといって安心もできないが、今のところは問題なさそうだった。 今日は平日で晃は仕事だ。残業せずにまっすぐ帰ってきてくれるらしい